「ドイツ製の機材には、他にはない気品がある」
ヴィンテージ機材を愛好するエンジニアたちは、しばしばそう口にします。 Neumann や Telefunken といった名門の影で、1960年代から70年代にかけてドイツの放送業界を支え、オーバースペックなまでの高品質で知られたのが Siemens(シーメンス) の SiTRAL シリーズでした。
今回レビューする Korneff Audio SiTRAL Klangfilter 295 は、その Siemens W295 シリーズを精密に再現し、現代のデジタル環境で「アナログ以上の操作性」を与えた驚異のプラグインです。
開発したのは、伝説的なエンジニアであり、機材オタクとしても知られるダン・コーネフ。 彼が作るプラグインは、単なる「コピー」ではありません。 実機が持つ「音楽的な魔法」を抽出し、さらに現代のワークフローに必要な M/S 処理やサチュレーション調整機能を加えた、いわば「ヴィンテージの理想形」 です。
目次
1. Korneff Audio SiTRAL Klangfilter 295 とは?:ドイツ放送界の「黄金時代」を再現する
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Siemens SiTRAL シリーズ:妥協なき設計の歴史
1960年代、ドイツの放送センター(ARDなど)に導入された SiTRAL シリーズは、当時の技術の結晶でした。 放送事故が許されない環境下で、一切の妥協を排したコンポーネントが選ばれ、そのビルドクオリティは「現代の高級機材すら凌駕する」と言われるほどです。
中でも W295 イコライザーは、インダクター(コイル)をベースにしたパッシブ回路と、トランジスタによる増幅段を組み合わせた設計が特徴です。 そのサウンドは、極めてクリーンでありながら、同時に「アナログ特有の太さと甘さ」を併せ持っています。 数値上のスペックを追い求めるデジタルEQとは対極にある、「耳で聴いて心地よい」 ことを最優先に設計された芸術品なのです。
Dan Korneff がプラグインに込めた「遊び心」と「本気度」
Korneff Audio のプラグインを象徴するのが、実機の裏側(バックパネル)にアクセスできるような遊び心あふれるGUIです。 SiTRAL Klangfilter も例外ではありません。 表側の美しいノブでEQを操作するだけでなく、プラグインをクリックして「裏側」を覗き込めば、トランスのサチュレーション量を調整したり、左右チャンネルの個体差をシミュレートする Register 設定をいじったりすることができます。
これは、機材を改造して自分好みの音を作る「エンジニアの視点」 そのものです。 Korneff は、単に W295 の音を届けるだけでなく、ユーザーがその機材の「オーナー」になったかのような体験を提供してくれるのです。
[!NOTE] セクション1:専門用語解説
Siemens W295 : 1960年代にドイツの放送コンソール用に開発された、伝説的なイコライザーモジュール。
インダクターベース (Inductor-based) : コンデンサではなくコイル(インダクタ)を使用して特定の周波数を処理する回路設計。独特の音楽的な質感を生む。
サチュレーション (Saturation) : アナログ回路に過大な音量を通した際に発生する、心地よい倍音の歪み。
2. 3つの魂、1つのプラグイン:W295 / W295a / W295b の違い
Korneff SiTRAL Klangfilter 295 の最も素晴らしい点の一つは、一画面で 3つの異なるモデル を切り替えて使用できることです。 これらはすべて Siemens W295 シリーズの変遷に基づいています。
W295 (Original): アグレッシブな音作りと色の強さ
オリジナルの W295 は、シリーズの中で最も「色」が濃いモデルです。 ハイとローのシェルフに加えて、固定周波数のミッドレンジ・ブースト(Presence)を備えています。 そのサウンドは力強く、ドラムやベースに「重み」を与えたり、ボーカルの芯を太くしたりするのに最適です。 EQを大胆に動かしたときに、最もアナログ機材らしい反応を見せてくれるのがこのモデルです。
W295a (Tilt): ミックス全体を整える魔法の天秤
W295a モデルは、現代で言うところの「Tilt(ティルト)EQ」のような挙動を示します。 音全体のバランスを、シーソーのように「明るくする」か「暗くする」か、極めて音楽的なカーブで調整できます。 マスタリングやミックスバスにおいて、全体の雰囲気(Vibe)を一瞬で整えたいときにこれ以上のツールはありません。 「EQをいじっている感覚がないのに、なぜか音が良くなる」という不思議な体験をさせてくれます。
W295b (The Sculptor): 現代的な精密さと滑らかな中域
W295b は、シリーズの中でも最も洗練されたモデルです。 広範囲を滑らかに調整できる中域(ブースト/カット可能)を備え、音を「彫刻」するように細かく追い込むことができます。 シルキーな高域が特徴で、アコースティックギターや女性ボーカルに、耳に痛くない「輝き」を持たせたいときに真価を発揮します。 精密さとアナログの温かみが完璧なバランスで融合した、完成度の高いモデルです。
[!NOTE] セクション2:専門用語解説
シェルフ (Shelving) : 指定した周波数以下、あるいは以上の音域を平坦に持ち上げたり削ったりする設定。
Tilt EQ : 低域と高域を反比例させて増減させ、音の明るさをシーソーのように傾けて調整するEQ。
プレゼンス (Presence) : 音の明瞭度や「存在感」を左右する、主に数kHz帯域の中高域。
3. 音質の秘密:インダクタEQとトランスの「色気」
なぜ SiTRAL シリーズは、半世紀以上経った今でもエンジニアを魅了し続けるのでしょうか。 その秘密は、現代の安価な回路では再現不可能な「コンポーネントの豊かさ」 にあります。
インダクターベースの回路が生み出す「音楽的な歪み」
多くのデジタルEQは、数学的に正確なカーブを描きますが、それは時に「冷たく、平面的」に聞こえる原因となります。 一方で、SiTRAL のようなインダクターEQは、EQを操作する過程で微妙な位相の変化や倍音の付加が発生します。 これが、私たちの耳には「音が前に出てくる」「音が立体的になる」 というプラスの要素として感じられます。 特に W295b の滑らかな高域は、デジタル特有の「パサつき」を一切感じさせない、本物の質感を備えています。
トランス・サチュレーション:温かみから過激なドライブまで
このプラグインの隠れた主役が、エミュレートされたインプット/アウトプット・トランスフォーマー です。 バックパネルにある「Transformer」ノブを上げることで、トランスを通したときに発生する独特のハーモニクス(倍音)をコントロールできます。
控えめに設定すれば、音の輪郭を優しく太くする「アナログの糊」として機能します。 逆にグイッと上げれば、ドラムを歪ませて激しいロックサウンドを作ったり、ボーカルに攻撃的なざらつきを加えたりするサチュレーターとしても非常に優秀です。 「EQプラグイン」という枠組みを超えた、「トーンデザイナー」 としての側面がここにあります。
HQモード:CPU負荷と引き換えに手に入れる「究極のリアリティ」
Korneff は、音質に一切の妥協を許さないユーザーのために「HQ (High Quality) モード」 を用意しました。 これを有効にすると、内部処理の解像度が上がり、エイリアシング(ノイズ)が極限まで抑えられます。
確かに CPU 負荷は増えますが、マスタリングや重要なリードトラックに使用したとき、その「音の解像度の高さ」と「アナログの奥行き」には、負荷に見合うだけの価値があります。 ここぞという場面で、魔法のスイッチとして機能してくれるはずです。
[!NOTE] セクション3:専門用語解説
トランスフォーマー (Transformer) : 磁気を利用して電圧を変える部品。アナログ機材では「音を太くする」ための重要な色付け要素。
倍音 (Harmonics) : 基音の整数倍の周波数成分。これが加わることで音に深みや個性が生まれる。
エイリアシング (Aliasing) : デジタル処理の過程で発生する、不快な非音楽的ノイズ。
4. モダン・エディット:実機を超えたカスタマイズ機能
Korneff Audio が素晴らしいのは、ヴィンテージの不便さをそのまま持ち込むのではなく、デジタルならではの利便性を完璧に融合させている点です。
M/S処理で空間の広がりと奥行きを制御
実機の Siemens W295 はステレオ(あるいはモノラル2台)での運用が基本でしたが、Korneff 版は標準で M/S (Mid/Side) 処理 に対応しています。
例えば、ドラムバスにおいて「キックやスネアの芯(Mid)は変えずに、シンバルの広がり(Side)のハイだけをブーストする」といった高度な調整が可能です。 また、マスターバスで楽曲全体の広がりを強調したいとき、Side 成分の低域をカットし、高域をわずかに持ち上げるだけで、驚くほどクリーンで開放的な空間が手に入ります。 これは現代の「透明感」を重視するミックスにおいて、ヴィンテージな質感を損なわずに空間を広げられる、極めて強力な機能です。
チャンネル間の個性を生む「Register(公差)」設定
アナログ機材には、どんなに高級なものでもパーツの個体差(公差)が存在します。この「完璧ではない左右のズレ」こそが、音に立体感とリアリティを与えると言われています。 Korneff はこの「ズレ」を「Register」 ノブとしてパラメータ化しました。
ノブを数%上げるだけで、左右のチャンネル間に微妙な偏差が導入され、音が「静止した画像」から「動いている風景」のように生き生きとし始めます。 これは、単にEQをかけるだけでは得られない、アナログレコーディング特有の磁場のような質感を再現するための、極めてマニアックで効果的な機能です。 0%(デジタルな完璧さ)から始まり、徐々に上げていくことで、音が「箱から飛び出してくる」ような瞬間を見つけることができるでしょう。
自動ゲイン調整と周波数アナライザー
EQでブーストすると、当然ながら全体の音量も上がってしまいます。これでは「音が良くなった」のか「音が大きくなっただけ」なのか判断が難しくなります。 SiTRAL Klangfilter には Auto Gain 機能が搭載されており、ブースト量に合わせて出力ゲインを自動で下げ、純粋な「音色の変化」だけを耳で判断できるようサポートしてくれます。
さらに、背景に表示される高精度な周波数アナライザー は、耳での判断を視覚的に裏付けてくれます。 「ヴィンテージの音」を「現代の精度」で操る。この絶妙なバランスが、Korneff ならではの強みです。 古い機材を使っているときの「不透明さ」や「不安」を完全に取り除き、インスピレーションだけを享受できる環境が整っています。
[!NOTE] セクション4:専門用語解説
M/S 処理 (Mid/Side) : ステレオ信号を「中央」と「左右の広がり」に分けて個別に処理する手法。
公差 (Tolerance) : 工業製品において、設計上の数値と実際の数値との間の許容されるズレ。
オートゲイン (Auto Gain) : EQ操作による全体の音量変化を、自動的に相殺して一定に保つ機能。
5. 実践:SiTRAL Klangfilter 295 で「プロの質感」を作るヒント
ただ通すだけでも音が良くなるプラグインですが、その特性を理解して使いこなすことで、あなたのミックスは一歩上のステージへ到達します。
ボーカル編: シルキーな空気感と存在感の両立
モデル選択 : W295b を選びます。
高位(High)のブースト : 10kHz または 12kHz を +2dB〜4dB ほどブーストします。インダクタ特有の滑らかさにより、どれだけ上げても耳に刺さる嫌なキンキン感が出ません。
プレゼンス(Mid)の調整 : 1.5kHz あたりをわずかに持ち上げ、ボーカルの歌詞の明瞭度を確保します。
トランス設定 : 裏側の Transformer ノブを 10時〜12時方向へ。声に温かい倍音が加わり、オケの中でボーカルがスッと浮き上がってきます。
最終仕上げ : M/S モードで Side の高域をわずかにブースト。声が包み込まれるような極上の空間が生まれます。
マスターバス編: 全体に「糊(Glue)」と「艶」を与える
モデル選択 : W295a (Tilt) を使用します。
全体バランスの微調整 : 楽曲が少しこもっていると感じたら、Tilt を時計回りにわずかに動かします。低域がスッキリし、高域に美しい艶が加わります。
Register の活用 : Register を 5% 前後に設定。ステレオの奥行きが広がり、ミックスに「高級なアナログコンソールを通したような」空気感が生まれます。
サチュレーションの付加 : Transformer ノブを上げ、全体の「密度」を高めます。これにより、バラバラだった楽器が一つにまとまる「Glue」効果が得られます。
最終確認 : HQモードをオン。ミックス全体の解像度が一段上がり、完成度が極まります。
[!NOTE] セクション5:専門用語解説
シルキー (Silky) : 絹のように滑らかで、上品な高域の質感を指す比喩表現。
グルー (Glue) : バラバラの楽器の音が、まるで接着剤でつけられたかのように一体となって聞こえる現象。
ミックスバス (Mix Bus) : すべての楽器を最終的にまとめるメインのステレオ・チャンネル。
6. 比較と評価:Soundtoys “Sie-Q” や他のドイツ系EQとの違い
Siemens W295 シリーズのエミュレーションとしては、Soundtoys の “Sie-Q” も非常に有名です。
音色キャラクターの濃密さとカスタマイズ性の高さ
Soundtoys Sie-Q は、そのシンプルさと「一発で音が決まる」スピード感が魅力です。 しかし、Korneff SiTRAL Klangfilter 295 は、それとは比較にならないほどの「カスタマイズ性」と「深度」 を持っています。
3つの異なる回路モデルを切り替えられる柔軟性、トランスのサチュレーション量を細かく設定できる裏側パネル、そして M/S 処理。 「手軽にヴィンテージの雰囲気を足したい」なら Sie-Q ですが、「ヴィンテージ機器を完全にコントロールし、自分のシグネチャーサウンドを作りたい」 のであれば、Korneff 以外の選択肢はありません。 また、Korneff は低域のタイトさが際立っており、現代的なボトムエンドの処理においても、濁りのない力強いサウンドを提供してくれます。
なぜ「耳で聴くEQ」として語られるのか?
SiTRAL Klangfilter を使っていると、不思議と数値をあまり見なくなります。 「3kHz を何dB下げて……」と考えるよりも、ノブを回して「あ、ここが一番気持ちいい」というポイントを探すのが、このEQの正しい使い方です。
これは、もともとのハードウェアが「放送エンジニアが、限られた時間の中で最善の音を作るため」に設計された歴史があるからです。 Korneff はその「操作の快適さ」 までをも完璧に再現しています。 数値に縛られず、純粋に音楽を楽しみながら調整できる。これこそが、クリエイターにとって最大の贅沢と言えるでしょう。 一度この感覚を覚えると、目で波形を追うだけのEQ作業が、いかに無味乾燥なものであったかに気づかされるはずです。
[!NOTE] セクション6:専門用語解説
Soundtoys Sie-Q : Siemens W295b をモデルにした、シンプルで定評のある他社製EQプラグイン。
シグネチャーサウンド (Signature Sound) : そのクリエイターやエンジニアを象徴する、独特の個性的な音。
ワークフロー (Workflow) : 作業の流れ。スムーズな操作性は制作のインスピレーションを止めないために不可欠。
7. まとめ:SiTRAL Klangfilter 295 は、あなたのミックスに「歴史の重み」を刻む
Korneff Audio SiTRAL Klangfilter 295 は、単なるヴィンテージ・モデリング・プラグインではありません。 それは、かつてのドイツ放送界を支えたエンジニアたちの情熱と、それを愛してやまないダン・コーネフの狂気が生んだ、「アナログ愛の結晶」 です。
デジタル特有の音の壁を突き破り、ミックスに空気感、奥行き、そして何よりも「音楽的な魔法」を加えたいのであれば、このプラグインは間違いなく最強のパートナーになります。
3つの回路の個性を使い分け、裏側パネルで機材を自分色に染め上げる。 一度その「甘い歪み」と「シルキーな輝き」を知ってしまえば、もう他のクリーンなデジタルEQだけでは満足できなくなるはずです。
実機の Siemens W295 がそうであったように、このプラグインもまた、あなたのスタジオにおける「一生もの」のツールになるでしょう。 派手な機能に惑わされるのではなく、本質的な「音の良さ」を追求したいすべての方へ。 SiTRAL Klangfilter 295 は、あなたの楽曲に、年月を経ても色褪せない「気品」と「力強さ」を与えてくれることを約束します。
あなたのDAWに、1960年代ドイツのプライドと気品を。 SiTRAL Klangfilter 295 と共に、新しい音色の旅に出かけてみませんか。さあ、あなたもドイツ放送界の気品を、その手で操ってみてください。
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